『パンガヰヌーン拳法研究会』インフォメーション


Last Update:2017.6.20

新着情報 



周子和 先生
上地完文 先生


【研究会設立趣意】

 
明治43年(1910年)、13年間の修業を終え、中国福建省から沖縄(琉球)へ帰国した上地完文先生によって、周子和先生(南派少林拳・虎形拳)伝承の「パンガヰヌーン拳法」が持ち帰られました。(正確には、完文先生は流派名を「南支・パンガヰヌーン流」と呼ばれていました)

 その後長年の沈黙を経て、大正15年(1926年)、和歌山市手平にて初めて一般に「パンガヰヌーン流唐手術」として教授されました。

 パンガヰヌーン流唐手術は、上地完文先生より和歌山(パンガヰヌーン流空手術研究所)の高弟や二世・上地完英先生によって受け継がれ、「上地流空手術」、さらに戦後は「上地流空手道」として今日の姿に進化し、世界的な普及発展を遂げました。

 しかしながら、昨今は組手・型競技への対応などにより技法の細部が変化を遂げ、一撃必殺の武術的本質よりも、ポイント上の勝敗や見栄えを重視する風潮も見受けられ、また一部の上地流系会派では「サンセーリュー」の上位に位置づけられる新しい型が創作されるなど、上地流の技術的・歴史的原点から大きくかけ離れて行く動きがあることに我々は強い危機感を覚えるものです。

 そのような背景を踏まえ、「上地流空手道の原点に立ち返り、その本義を極める」ことを目的に、下記の通り「パンガヰヌーン拳法研究会」を設立し、斯道の健全な普及発展に寄与することを決意致しました。

                            記

【 研究会の具体的活動】

(1)パンガヰヌーン拳法(空手術)の技法研究と保存(腕固め、三戦、十三、三十六)

(2)周子和先生に関する情報収集、記録保存

(3)上地完文先生の生涯に亘る足跡の情報収集、記録保存(書籍として出版)

(4)パンガヰヌーン空手術から今日の上地流空手道に進化した際の技法変遷と歴史的経緯の情報収集、記録保存

(5)上地流の歴史等を研究する団体、個人との情報交換、共同調査 等



【研究会メンバー及び事務局】

湘南修武館所属の二段以上の会員を中心に構成(当面)し、事務局を「沖縄伝統技芸振興会館」に置く


【現況及び活動】

 和歌山、大阪、沖縄での地道な調査の結果、「パンガヰヌーン空手術」の三戦、十三は、ほぼ技法的な再現が完了しました。
  特に十三は、パンガヰヌーンVer ⇒ 上地流VerT ⇒ 上地流VerU ⇒ 上地流現Ver と数度に渡る試行・改編を加えられており、 誤解を恐れずに表現すれば、「パンガヰヌーン空手術」と現代「上地流空手道」の技法は「似て非なるもの」との見解に立ちます。

  今後は、そのような技法的変遷経緯の検証を行いつつ、併せて、失伝に近い状態となっているパンガヰヌーン・三十六(サンダールイ)の再現図ります(2012年8月に中国福建省での踏査を実施済み)

研究会に関するお問い合わせは沖縄上地流唐手道協会東京本部までメールでお願いします




研究会メンバー
≪代 表≫
  
  藤本恵祐
湘南修武館の二段以上の会員を研究会メンバーとします



新着情報


【2017.6.20】 上地完文先生伝記を「関西沖縄文庫」に寄贈 

 
沖縄空手愛好家、研究家のために、伝記日本語版を「関西沖縄文庫」(大阪市大正区平尾5丁目1-19 )に寄贈しましたのでお知らせします。




【2017.6.6】 上地完文先生の足跡追加レポート  

 
6月2日(金)〜4日(日)の沖縄遠征に合わせて、足跡追加調査を行いました。

 

宜野湾市在住・西平さん(左)へのインタビュー。完文先生と交流のあったお父さんから子供時代に
聞いたエピソードをたくさん語って頂きました。その内容は一級品の資料価値があるものでした。
しっかりと記録に留め、後世に伝えたいと思います。

 

セミナー、昇段審査会場となった八重岳ゲストハウス敷地に立つ案内標識

 

敷地内の森の中に残る藍壺。廃藩置県で職を失った琉球王朝士族十数家族が当地に入植し、
この壺で藍染を行って生活資金を稼いでいました。上地家も恐らく使っていたのでは
ないかと言われています 。今から百年以上も前の遺構で、付近には屋敷跡の石垣も積まれています。

 

敷地内に続く道。完文先生、完英先生もこの道を通って山の下の街に通われていました。

 

完文先生屋敷跡地に立つ松の木。ゲストハウスができるずっと以前から生えていたそうで、
口伝によれば、完文先生、完英先生が抜き手や足先蹴りを鍛えていた木の可能性があります。

 

完文先生唯一の女性門弟に、縁の地で昇段を祝福頂きました。




【2017.4.29】 上地完文先生伝記を沖縄県立図書館及び本部町立図書館に寄贈 

 
沖縄空手愛好家、研究家のために、伝記日本語版を沖縄県立図書館及び本部町立図書館に寄贈しましたのでお知らせします。




【2017.4.6】 上地完文先生伝記英訳版を国立国会図書館に納本  

 
海外の沖縄空手愛好家、研究家のために、伝記日本語版に続き英語版を国会図書館に納本しましたのでお知らせします。




【2017.2.6】 上地完文先生伝記英訳版完成  

 
伝記英語版が完成しました。海外愛好者の皆さまに今月より頒布を開始します。斯道の正しい歴史継承に少しでも貢献できればと思います。



 

完成本



【2016.12.15】 上地完文先生伝記英訳版刊行記念対談会  

 
12月23日(祝)、湘南修武館本部道場において、パンガヰヌーン拳法研究会主催による伝記英訳版刊行記念対談会が開催されました。
  対談には、筆者である藤本師範と翻訳プロジェクトマネージャーの角田師範代、そして主任翻訳者であるロバート・ガロン氏(東京ベイサイドクラブ所属)の3人が参加。約1時間にわたり、伝記には書かれていない事前調査・執筆の裏話や上地完文先生の人物イメージなどについて語って頂きました。
  伝記英訳版とこの対談によって、斯道関係者の皆様が等身大の上地完文先生と流派の原点、歴史を学ぶ際の一助となれば幸いです。(伝記英訳版に関するご質問等は当サイトのお問合せコーナーからメールでお寄せください)





湘南修武館 本部道場 館長室にて


【藤本師範】

 今日は年末の忙しいなか、対談会に参加頂きありがとうございます。2年前に刊行されました「実録・上地完文伝〜奇蹟の拳法を遺した男〜」は、お陰様で斯道関係者から大変ご好評をいただき、海外からも英訳のオファーがたくさん寄せられました。 今回皆様のご協力を得て、1年という膨大な時間と多大なるエネルギを費やした英訳版が遂に最終校正を終えました。
 それを記念し、刊行を待ち望む海外の上地流愛好家の皆さまに向け、調査・執筆活動の裏話や、執筆・翻訳を通じて我々が感じた流祖・完文先生の人物像、或いは新たに発見した史実などについて多面的に語る機会を持ち、ウェブサイトを通じて事前PRさせて頂くことにしました。

 まず、お二人に翻訳作業を通じて感じた上地完文先生の人物像についてお聞かせください。

【ロバート氏】

 翻訳プロジェクトに関わる前は、穏やかな性格ながらも凄い武術家という印象でしたが、中国に渡って修行し、帰国後暫くして和歌山に転出するなど、色んな環境の変化にも積極的に立ち向かい、前向きに対処されていて、確固たる信念を持ったぶれない精神力のある方だったのではないかというイメージを強く持ちました。一言で言えば人生に対して「勇気ある方」、と言ってもいいかも知れません。

【角田師範代】

 完文先生は決してカリスマ的な存在ではなく、実に謙虚な方で、自分がやりたいことをとことん追求し、自分が納得できればそれでよし、という考えをお持ちの方ではなかったかと思います。 自分が修得した技術を他者に自慢したり、押し付けたりするようなこともなく、そもそも誰かの先生になろうというような気持ちも無かったのではないでしょうか。




ロバート氏

【ロバート氏】

 伝記刊行に向け、相当な労力を使われたと思いますが、執筆を断念するような事態はありましたか?

【藤本師範】

 確かにかなりの労力、資金、エネルギーを費やしましたが、執筆を断念するような事態はありませんでした。むしろ、調査の過程で関係者の方々と不思議としか言いようのない多くの出会いがあったりして、完文先生や完英先生が是非執筆してくれ、と天国からおっしゃっているような気がして、それに背中を押されて一気に書き下ろした、という感じでしょうか。
 伊江島にお住まいの完文先生の和歌山時代からの直弟子の方からは、「あなたは、完文先生の伝記を書き残す運命を持って生まれてきたと思うから頑張って書きなさいよ」と言われ、非常に勇気づけられましたね。
 ただ、困ったことはありました。それは、我々沖縄上地流の技法と、中国福建省の周子和継承者とされる方々の技法、さらには和歌山・上地流友寄道場の皆さんの技法とが、かなり相違している事実をどう理解し、伝記に書き留めればいいのか、という点ですね。そのことは伝記のなかで整理すべきことではないかも知れませんけど。



【藤本師範】

完文先生の遺されたエピソードで特に印象に残ったことをお聞かせください。

【ロバート氏】

 和歌山の新堀橋でのエピソードはとても印象深かったですね。橋の欄干に三戦立した完文先生を棒で突き落とせたらお小遣いをあげると自ら宣言し、弟子たちが挑戦したが誰一人突き落とすことができなかったというお話にはビックリしました。武術の師匠であり、そんなことをされる方だというイメージが全くありませんでしたから。

【角田師範代】

 普段はお酒を飲まない完文先生が、時折弟子の勧めで一杯やって、気分が乗ってくると中国で覚えた唄を歌ったり、窓を閉めさせて三十六(サンダールイ)の型を披露したりするお話しは、とても人間臭いエピソードでいいですね。真面目一方でもなく、少しおちゃめな性格も窺えますが、それも人間上地完文の間違いない一面ですし。

【ロバート氏】

 上地流が今日このように世界に普及している様子をご覧になったら、完文先生はそのことをどのように思われるでしょうか?

【藤本師範】

  完文先生は入門希望者が居ても弟子の紹介が無いと受け入れることはなかったし、三十六(サンダールイ)の型も上地家の家宝として完英先生以外に教えることはなかったという慎重な姿勢から考えると、嬉しさ半分、戸惑い半分の複雑な心境と言った感じではないでしょうか。まあ、当時と今では時代背景や武術を取り巻く環境は大きく違いますけど。

【角田師範代】

 そもそも、当初は誰かに自身の拳法を教えるという発想をお持ちでは無かった訳で、私もそれを広く普及させるなんてお考えは持たれていなかったと思いますね。

【藤本師範】

 
完文先生が和歌山で唐手を指導されていた頃、大都会東京では船越義珍先生や宮城長順先生、本部朝基先生方は盛んに指導や交流をされていたのに、完文先生はせいぜい大阪の弟子を訪ねるくらいで、東京まで足を伸ばされていません。当時の鉄道網の発達からすれば、行こうと思えばいくらでもチャンスはあったかと思います。 この辺りにも、自流をただ大きく広げるのではなく、自分の目の届く範囲でしっかり弟子を育てていこうという完文先生の基本的なスタンスを感じるんですよね。

【藤本師範】

  もし完文先生がご存命なら、どんなことをお聞きしてみたいですか?

【ロバート氏】

 そうですね、私は50歳を過ぎてからこの上地流と出会いましたが、年齢に応じた鍛え方にはどのようなものがあるか、是非お聞きしてみたいですね。特に上地流は鍛えに重点を置いていますし。





藤本師範


【藤本師範】

 それは私も是非聞いてみたいですね(笑)。色んな年齢のお弟子さんが和歌山や伊江島には居たでしょうから。


【角田師範代】

 私はやはり、完文先生の師匠である周子和先生はどんな方だったのか、また周先生から一体何を教わったのか、そのあたりのお話しを詳しく聞いてみたいですね。稽古方法、具体的な技遣いなど、おおいに気になります。


【藤本師範】

 1900年頃、つまり完文先生がちょうど中国で修行を始められた頃、現地では有名な義和団(義和拳教)の乱が勃発し、排外ムードが極端に強まったとされていますが、彼らの写真を見ると、本当に背中に青竜刀を背負って街中を闊歩しています。そんな時代に伝授された拳法ですから、今の平和な時代の拳法と違って、さぞかし命がけの実戦スタイルではなかったでしょうか。完文先生の師匠、周子和先生も道場破りとの闘いで負傷し、それがもとで亡くなったと福州では伝えられています。

【角田師範代】

  完文先生は現在の上地流の技法をご覧になったらどのような印象を持たれるでしょうか。完英先生が宗家二世を継がれてから、様々な研究や創意工夫を重ね、上地流の技法は大きく変化を遂げてきていますが。

【藤本師範】

  これは私個人の見解ですが、恐らく残念な思いでご覧になるかと思います。なぜならば、和歌山や伊江島でご指導された技法(三戦、小手鍛え、型、組手)はご自身では完成されたものであると確信されていたようで、和歌山の道場(研究所)を訪ねた他流指導者らも、その峻烈を極める技法に感嘆していたとの証言や資料がたくさん残されています。
 なかでも完文先生が一番驚かれるのは、今の上地流の「廻し受け」だと思います。完文先生の指導技法に廻し受けは存在せず、中段への攻撃には掛け受け、上段へは弾き受けがベースですから。なぜ顔面部まで腕を廻して防御態勢を取るのか疑問を持たれるのではないでしょうか。伊江島でご健在の和歌山時代の直弟子の方も、「時代の流れとは言え、今の技遣いはあまり実戦向きではないかも知れないね」と感想を述べられています。もちろん、現代の上地流は先達が意図を持って工夫改良を加えた結果であって、その価値が揺るぐことはいささかも無いと考えますが。


【角田師範代】

 完文先生は、中国修行時代に「ノールール」「ノージャッジ」で磨き上げた拳法を弟子に指導されていた訳ですから、当然今の空手とは本質を異にする技法だったでしょうね。もちろん、昔の技法が良くて今の技法がダメとかいう単純な比較論は意味が無いと思いますが。




角田師範代

【藤本師範】


 完文先生の足跡調査で、もう少し調べておけばよかったと思われることはありますか?

【ロバート氏】

 私は、完文先生が福建省から帰国され和歌山に転身されるまでの間に、一体何をされていたのか、もう少し詳しい情報があればいいですね。

【角田師範代】

 山の中に住んでいて、木々を伐採して薪にして売っておられたくらいのエピソードしかないですよね。確かに完文先生の歴史のなかでは空白になっている感じですね。

【藤本師範】

 恐らくその時期は拳法に関するエピソードはなかなか出てこないのではないかと思います。色んな事情から修行を中断して帰国し、家族を養うために黙々と仕事に打ち込んでおられた頃でしょうし、伝記にも書いた通り、中国時代の晩年は完文先生にとって余り思い出したくないものだったでしょうから誰にも自身の体験を語っておられませんし。


【角田師範代】

 ただ、その頃地元の中学生に多少の手ほどきをされていたというエピソードは残っていますね。

【藤本師範】

 確かにその証言は残っていますが、最近わかった事実としては、本格的な武術指導ではなく、あくまで基本的な技法を少し見せながら、同時に人の道を諭すような道徳教育的なものだったそうです。子ども好きな完文先生らしいエピソードです。

【角田師範代】

 摩文仁賢和先生は完文先生や完英先生と交流があった訳ですが、糸東流の皆さんがもう少し詳しく流祖・摩文仁先生の足跡を調べると、その途上で完文先生の知られざる逸話がひょっとしたら出てくるかも知れませんね。

【ロバート氏】

 今後藤本先生は、 完文先生の足跡についての追加調査や、その結果を踏まえた改訂版の執筆などはお考えですか?

【藤本師範】

 完文先生の足跡については、可能な範囲でもうほぼ調べ切ったと思っていますので、追加調査の予定はありません。ただ、伝記日本語版の初版を刊行した後で、完文先生唯一の女性門弟との出会いがあり、その方から驚くような証言を多数頂いております。その中には、中国修行時代の師匠との稽古・生活模様や、実は中国修行を幾度か中断して沖縄に戻っておられたことなど、驚くべき内容もたくさん含まれており、その情報を追記した改訂版(日本語版)を某出版社から刊行すべく準備を進めています。その改訂版の英訳版をどうするかは、今回の翻訳プロジェクトの皆さんと再度ご相談して決めたいと思います。

【藤本師範】

 伝記以外に、今後上地完文先生の足跡や上地流の歴史を、世界の愛好家のために正しく残してゆく取り組みとして、どんなことが考えられますか?

【ロバート氏】

 セーサンなど古流の型なども存在しますので、同じ上地流の中でも違いがあることを前提に、お互いに研究する機会や環境を設けることも必要ではないかと思いますがいかがでしょうか。

【藤本師範】

 和歌山⇒大阪・尼崎⇒沖縄と上地流の歴史が動く途上で技法が少しずつ変化してゆきますが、それを歴史と共にトレースする取り組みは、大変面白い試みかもしれませんね。どらが正しい、どれが間違っている、或いは古い、新しいでなく、皆それぞれ大事に承継しているので、お互いに尊敬し研究しあうという姿勢が基本になければいけませんが。沖縄や海外の上地流唐手家が最近和歌山の友寄道場を表敬訪問・交流されているのは画期的ですね。
 
【角田師範代】

 今回の伝記英訳版の刊行を足掛かりに、海外の愛好家の皆さんから色んな意見、質問、疑問、反論、新情報等が出てくることを期待したいですね。



上地流唐手が産声をあげた街並み(現在の和歌山市手平)

【藤本師範】

 そうですね。福州では現地武術協会幹部の皆さんと、周子和先生に関する突っ込んだ情報交換と合同演武会を 通じて、これ以上の足跡発掘はもう無いだろうというレベルの調査・交流を行ったつもりですが、ひょっとすると海外には別のアプローチから完文先生の足跡に辿り着いた方がいるかも知れませんし。私は武術家にとって大切なのは、先達が築きあげてきた「技法」「精神」「歴史」をいずれも欠かすことなく承継することだと思っています。その観点をベースに、是非海外の愛好家の皆さんと交流を深めたいですね。原点と通過点をしっかり掴みながら未来に向かって修練を続けてゆくことが、あらゆる流派にとって大切だと確信しています。

【ロバート氏】

 話は変わりますが、和歌山時代に完文先生が時々芝居小屋の見学に行かれていたとかのエピソードも、当時の文化的な背景が伺えて興味深かったですね。

【角田師範代】

 そう言えば完文先生はロマンの人だったという証言もありますね(笑)。そんな証言にも今までに知られていない完文先生の人間臭さが垣間見えて私としては嬉しいです。

【ロバート氏】

 和歌山時代の稽古内容や道場の雰囲気などは判っているのでしょうか?

【藤本師範】

 はい。直弟子の方の証言では、三戦、小手鍛え、セーサン、組手、基本鍛錬だったそうで、完文先生の組手の得意技も判っています。普段は温厚な方だったが、ひとたび稽古になると顔つきが変わり、怖くて近寄れなかったそうですよ。また、生活の苦しい弟子は月謝を満額納められなくても稽古参加を許されるなど、完文先生のおおらかな人柄もあって人気の道場だったらしいですよ。

【角田師範代】

 今後上地流に関する何か大きなイベント構想はありますか?

【藤本師範】

 そうですね。2025年は完文先生が和歌山で門弟に指導を開始してちょうど100年を迎えます。その時は和歌山、沖縄、東京で大きな記念イベントを開催したいですね。まだまだ先のことかも知れませんが、私はその時を楽しみに、これからも元気で修行を続けられたらいいな、と願っています。海外の愛好家の皆さんにも是非参加して欲しいですね。

 ちょうど時間となりましたので、対談会をこのへんで終了したいと思います。今日は年末の忙しいなかお集まり頂きありがとうございました。




対談を終えて記念撮影




【2016.2.2】 上地完文先生の足跡追加レポート  

 
1月31日(日)パンガヰヌーン拳法研究会メンバーが沖縄を訪問し、上地完文先生の足跡に関する追加調査を行いました。
 上地流開祖・上地完文先生の生涯を綴った『実録・上地完文伝』(当会刊行)は斯道関係者に大変ご好評を頂いておりますが、刊行後に判明した新事実を盛り込んだ追補版の出版を検討中で、その情報収集を主たる目的としています。
 今回も、上地完文先生唯一の女性門弟であるH.Kさん(沖縄県在)を訪ね、完文先生との思い出やエピソードについて補足インタビューを行いました。
 なお、H.Kさんを本年6月に伊江島で開催予定の「沖縄上地流唐手道協会セミナー・ビーチパーティ」にお招きし、国内外の会員と交流頂く予定です。

 ※『実録・上地完文伝』が、榕樹書林さん(宜野湾市)に納品されましたのでお知らせします。



H.Kさんを囲んで




【2015.1.12】 上地完文先生の足跡追加レポート  

 
1月10日(土)〜11日(日)、パンガヰヌーン拳法研究会の藤本代表が沖縄を訪問し、上地完文先生の足跡に関する追加調査を行いました。
 上地流開祖・上地完文先生の生涯を綴った『実録・上地完文伝』(当会刊行)は斯道関係者に大変ご好評を頂いておりますが、今回英語版を制作するに際し、諸関係者から寄せられた新しい情報の確認と深堀り目的としたものです。
 晩年の上地完文先生に伊江島で師事したH.Kさんからは、先生から直接聞き取った福建省修行時代の詳しいエピソードなどをご披露頂きました。
  その内容は諸事情により開示を控えますが、「周子和」師匠説を改めて補強するものであり、当会で正確に記録保存させて頂きます。その他渡清中の足跡について驚くべき新事実もお話し頂き、伝記追補改訂の必要性も出て来ました。
 また、和歌山及び伊江島研究所時代に完文先生に内弟子として師事したS.K(兄)さんにも5回目の取材を行い、和歌山・手平の上地流空手術研究所内の間取りや門弟の様子などについて詳しくご披露頂いたほか、サンチン、セーサンの型に関する当時の技法についてもご教示頂きました。(上地完文先生とアメリカ進駐軍兵士とのエピソードなども新しくお聞かせ頂きました)

※『実録・上地完文伝』が、且逞逑ー本店(那覇市泊)に20冊追加納品されましたのでお知らせします。



H.Kさんと藤本代表 (1/10)



S.K(兄)さん〜大正15年6月生まれの90歳〜 (1/11)



【2014.9.18】 神戸訪問レポート  

 
9月17日(水)、神戸の移住ミュージアム(戦前に建築された移民収容所を改築してそのまま利用)を訪問しました。ここには明治末期から昭和40年代までブラジルを始めとした南米諸国に移民として移住した人たちの様々な記録が保管展示されています。
 
パンガヰヌーン空手術研究所(社宅道場)時代の門弟で、上地完文先生がその将来に大いに期待を寄せていた上里玄明氏も、昭和初期にこの収容所からブラジルへ移民として旅立っており、今回その一家と思われる渡航記録を発見しました。(ブラジル移住後の記録は不明)
 
移住者のなかには空手の修行者も多数含まれ、移民船に持ち込んだ空手衣などの写真も大切に保管されています。



移民船「笠戸丸」



【2014.9.2】 沖縄訪問レポート  

 
少女時代(11歳頃)に上地完文先生から伊江島で指導を受けたH.Kさんを訪問しました。沖縄戦の当時、伊江島は米軍の総攻撃によってほぼ完全に破壊し尽くされ、全島で焼失を免れた民家はごく僅かでした。
 その焼け残ったある民家敷地の一画に上地流空手術研究所(伊江島道場)が建てられ、晩年の完文先生とH.Kさんを含む一部門下生が寝起きを共にしながら暮らしていたそうです。
 H.Kさんに完文先生の人柄を問うと、「とにかく物静かな優しいオジイでした。島民からは上地のたんめーと呼ばれて親しまれていました」との答えが返ってきました。
 一緒に畑仕事に行くと、休憩時間に三戦鍛錬の指導を受け、「三戦三年」といつも言われていたそうです。上地完文先生の伝記執筆過程において結論付けた、終生女性に指導することはなかったという点については訂正を加える必要があり、かつ福州から帰国した後に地元第三中学の生徒に時おり拳法の手ほどきをすることがあったという口伝については、子ども好きの完文先生の性格からしても、恐らく事実であったとみて良いかと考えます。
 今回H.Kさんに提供頂いた昭和31年撮影の上地流修武会幹部記念写真は「精説・沖縄空手道」(1977年刊)にも掲載されていない貴重な資料であり、ゆめかなかん(沖縄伝統技芸振興会館)に掲示して、先達の遺徳を永く顕彰したいと考えます。(事情により、当ホームページでは非公開とさせて頂きます)



終戦直後の伊江中学校付近の様子(背後は城山)





「精説・沖縄空手道」(1977年刊)を見ながら当時の様子を振り返るH.Kさん




【2014.6.16】 伊江島訪問レポート 

 
6月15日(日)パンガヰヌーン拳法研究会では、沖縄遠征の機会に合わせ、伊江島在住のS.Kさま(兄)を訪ねました。
S.Kさま(兄)は和歌山・伊江島の上地流空手術研究所において3年間、上地完文先生と寝食を共にされ、晩年の内弟子として厳しい修行を積まれた方で、伝記執筆に際しても貴重な証言や技法の解説を頂きました。
 今回は伝記に書かれている史実の深堀りや、未確認の情報が無いかの確認を兼ねた面会でした。各自で自身の伝記を持参し、記念にサインをして頂くなど、とても良い想い出となりました。
 これからも益々お元気で、上地流唐手の歴史と技法について語り継いで頂けることを願っています。
(ご本人の希望により匿名としています)

 



訪問メンバーと記念撮影。毎年の面会を楽しみにされています



上地流唐手の命は何と言っても「掴みながらの素早い攻撃」「体の締め」「呼吸法」と熱く語るS・K(兄)氏
「精説・沖縄空手道」(1977年刊)の和歌山研究所時代の写真にも、上地完文先生と共に写っておられます



S.Kさまの米寿を祝う手拭いを頂戴しました。益々のご長寿、ご健勝を祈念致します。



【2014.5.5】 上地完文先生伝記完成

 上地完文先生生誕137周年のこの日に、遂に伝記が完成しました。
 
パンガヰヌーン流唐手術が、糸東流や剛柔流などの諸流派と関西で緊密に交流研鑽しながら、今日の上地流唐手として発展してきた史実も余すところなく紹介しています。
 現在英語、ロシア語への翻訳を進めており、年内に海外にも頒布予定です。
 足かけ5年間の取材を経て、今まであまり知られていなかった流祖・上地完文先生の苦難の修行と斯道普及の足跡にスポットライトを当て、その功績と遺徳を上地流関係者に広くお伝えしたいと願っております。
 なお、本書は且逞逑ー社のご厚意により、同社本店(那覇市泊)でも取り扱っております。
 また、取材活動を通じ、完文先生が伝承した技法についてもかなりの部分が判明しましたので、交流会、研究会などのご要望があればご相談に応じたいと考えます。(東京本部までメールにてお問い合わせください)



守礼堂さんの店頭書棚に並びました(上段左から2冊目)




【2014.1.4】 上地完文先生伝記執筆中間報告  

 パンガヰヌーン拳法研究会では、上地完文先生の足跡を記録として残すため、現在伝記の執筆に取り組んでいますが、中間報告として、その章立てをご紹介いたします。

   ・序章 
   ・第1章:拳聖・上地完文誕生
   ・第2章:中国福州への旅立ちと苦難の拳法修行
   ・第3章:失意の帰国と謎の沈黙
   ・第4章:和歌山転身と運命の出会い
   ・第5章:関西での芽吹きと流転
   ・第6章:故郷沖縄での晩年
   ・あとがき
   ・巻末資料(上地完文の足跡を読み解く歴史年表など)

 なお、脱稿後は書籍のほか電子本としての配本や英語版の準備などに取り組みますのでご期待ください。




【2013.12.28】 再びの塚口道場訪問  

 パンガヰヌーン拳法研究会では、12月26日(木)、上地流巴会塚口道場を訪問し、交流稽古と情報交換を行いました。塚口道場前館長である福島先生が、過去の沖縄の先生方との交流を丹念に記録されていたことなどがわかり、関西エリアにおける上地流唐手普及史として、今後詳しく研究させて頂きたいと考えます。



●組手の交流稽古模様



【2013.6.9】 再びの和歌山探訪  

 パンガヰヌーン拳法研究会では、糸東流と上地流の出会いの場となった和歌山・手平の街を再び訪ねました。本年1月の交流稽古以来となります。
 上地完文先生と糸東流の初代・摩文仁賢和先生との交流は、昭和9年にこの手平から始まり、二代目・上地完英先生も大阪で親交を深められました。
 今回はその交流の足跡を訪ねながら、完文先生の情報を収集してきましたので写真をご紹介します。

*写真上:戦前から営業していた銭湯・万才湯(まんさいゆ)さん。パンガヰヌーン空手術研究所の近くにあり、完文先生や門弟の皆さんもよく通っていたそうです。(現在の建物は戦後立て替えられたものです)

*写真中:手平の新堀橋。この橋は完文先生と非常に縁の深い橋で、色んな興味深いエピソードが残されています。摩文仁賢和先生もきっと渡られたことでしょう。(現在の橋は戦後掛け替えられています)

*写真下:大正10年頃の和歌山紡績・手平工場外観。完文先生がお仕事をされていた昭和紡績のすぐ近隣にありました。その他、当時の工場内部写真なども多数入手しました。(残念ながら昭和紡績の記録写真は入手できていません)





【2013.5.11】 上地流と糸東流 

 上地流創始者・上地完文先生と糸東流創始者・摩文仁賢和先生の交流については、2月17日の記事でご紹介しましたが、このたび両先生の戦前の交流模様を記録した貴重な書籍(昭和9年刊行)の写しを入手しました。
 上地先生と摩文仁先生が出会ったいきさつや、中国拳法の特質、パンガヰヌーンの意味などについての対談内容が書かれており、非常に価値の高い資料と言えます。
 東京本部会員で閲覧を希望する方は、所属道場長を経由して研究会まで申し出てください。




【2013.3.20】 伊江島訪問 

 パンガヰヌーン拳法研究会では、上地流唐手の歴史調査の目的で、沖縄県・伊江村(伊江島)を訪問しました。伊江島は上地流唐手とは切っても切れない縁の深い島であり、和歌山隆聖館の初代館長で、完文先生の一番弟子である友寄隆優先生のご出身地でもあります。(賢友流宗家である友寄家初代も伊江島のご出身で、和歌山隆聖館宗家の友寄家とはご縁戚とお聞きしています)
  戦前、ここ伊江島から、多くの若者が職を求めて和歌山を始め関西方面に移住し、その過程で上地流唐手はこの世にデビューしました。修行者であれば、是非一度訪ねておきたい島です。
 今回の調査において、島の古老より戦前戦後の上地流唐手の歩みについて、新たな証言を入手することができ、完文先生の伝記に盛り込んで行きたいと考えます。

*写真上:フェリーから望む伊江島とシンボルの城山(ぐずくやま、通称:いーじまたっちゅー)
*写真中:城山を山の中腹から撮影。ここからコンクリートの階段を約15分くらい登ると頂上です。
*写真下:城山頂上から完文先生生誕地の本部方面を望む。360度のパノラマビューで、晴天時は慶良間諸島や久米島
も見えます。実際に、完文先生も登られたことがあるようで、二世・完英先生は戦前、城山から北部に見下ろす位置にあった、旧日本海軍航空隊用滑走路建設工事に従事され、日本兵を前に唐手の演武をされたそうです。





【2013.2.22】 上地完文先生の伝記執筆中 

 現在、上地完文先生の伝記を制作中です。生誕〜青年期、中国福州修行時代、帰国〜和歌山時代、沖縄での晩年に分けて章立て。 沖縄はもとより、完文先生に縁の深い中国福建省、和歌山、大阪、兵庫において5年間に渡る丹念な取材を通じて収集した史実の集大成です。
 なかでも、和歌山時代からの内弟子S.K氏(沖縄在)の証言は、従来一般には知られていない等身大の上地完文像やその技法の真髄に迫る、大変貴重な映像、口述資料と言えます。
 2015年の東京本部設立20周年記念のタイミングに合わせて刊行すべく、鋭意検証、執筆を進めておりますので、どうぞご期待ください。(刊行前に東京本部会員の皆さんを対象に、記念講演会を開催予定)



▲執筆中の原稿(一部)



【2013.2.17】 上地流 大阪西成道場跡地探訪記(V)   

 2月16日(土)、パンガヰヌーン拳法研究会では、大阪市西成区の道場跡地探訪の仕上げと、関西圏における上地流唐手の足跡調査の目的で、糸東流および賢友流各宗家を訪ねてインタビューを行いました。
 糸東流は1934年、初代・摩文仁賢和先生(1989〜1952年)によって大阪で創流されました。現二代目宗家・摩文仁賢榮先生は幼少より初代・賢和先生に師事され、95歳になられた現在も、海外からの研修生を含め、日々道場で門弟の指導に当たられています。
 初代・賢和先生は上地完文先生、完英先生や上原三郎先生(上地流空手道振興会初代)とも親しく交流され、関西における沖縄空手の普及と認知度向上に邁進されました。
 また、賢友流は1939年、初代・友寄隆正先生(1907〜1977年)によって大阪で創流されました。現二代目宗家・友寄隆一郎先生は幼少より初代・隆正先生に師事され、自流のみならず、上地流を始め沖縄空手や中国武術などを幅広く研究されており、海外への普及活動にも精力的に取り組まれています。
  今回、両先生から、沖縄空手の関西圏における発展史やエピソードについてたくさんのご示唆を頂き、上地流の足跡に新たなスポットライトを当てることができました。
 両流のますますのご発展と、摩文仁先生、友寄先生の益々のご健勝を祈念し、御礼とさせて頂きます。(今回のインタビュー内容は、別途東京本部会員の皆さんに発表の機会を設けます)
 



▲糸東流・摩文仁賢榮先生



▲糸東流宗家(総本部)道場



▲賢友流・友寄隆一郎先生



【2013.1.20】 上地流 大阪西成道場跡地探訪記(U)  

 1月19日(土)、パンガヰヌーン拳法研究会では、大阪市西成区の道場跡地の継続探訪を実施しました。
 前回調査時に判明した事実に加え、昭和10年代の古地図や電話帳等のデータを用意。沖縄県人会の皆さんと鶴見橋通り一帯を歩き、ある地元民の方の証言により、跡地をほぼ特定することができました。
 お力添えを頂きました皆様に、心より御礼申し上げます。


▲西成道場跡地近隣の街並み。ここには戦前戦後、剛柔流、糸東流、賢友流など、
上地流以外にもたくさんの沖縄空手道場が存在し、相互に交流があったようです。



【2012.12.15】 上地流 大阪西成道場跡地探訪記  

 12月14日(金)、パンガヰヌーン拳法研究会では、上地完英先生によって開設された大阪市西成区の道場跡地を探訪しました。
 昭和12年〜14年にかけて、完英先生は西成区鶴見橋通り(現在の町名は鶴見橋)に道場を構えられました。その時代は門弟もさほど多くなく、高弟は輩出していないとされており、また時間もかなり経過していることから(街並みの様子も当時とは一変)、その跡地を探し出すことは相当な困難であると予測していましたが、地元西成の沖縄県人会関係者の皆様のご協力により、大きな手がかりを発見することができました。
 次回訪問時に精緻な調査を行い、場所の特定に繋げたいと考えています。ご協力頂きました皆様に御礼申し上げます。



▲西成区旭町所在の沖縄県人会館 鶴見橋通りの近隣に位置します

▲鶴見橋通り近隣のたたずまい。さて、西成道場はどこにあったのでしょうか?



【2012.11.13】 上地流 兵庫尼崎・戸ノ内道場跡地探訪記   

 11月9日(金)、パンガヰヌーン拳法研究会では、上地完英先生によって開設され、その後古堅宗隆先生によって継承された兵庫尼崎・戸ノ内道場跡地を訪ねました。
 昭和15年、大阪西成から転居した完英先生は尼崎市戸ノ内で指導を開始されましたが、沖縄に帰郷後は古堅宗隆先生が師範代となって道場を維持されました。
 その後古堅先生も沖縄に帰郷され、後を継がれた福島寿礼先生が場所を尼崎市塚口に移し、今日の上地流巴会塚口道場となりました。
 塚口道場に伝承される技法や型は、和歌山隆聖館友寄道場に伝わるものとも微妙に異なり、上地流唐手伝承プロセスの奥深さ、多様さを改めて感じました。
 なお、今回の調査に伴い、完英先生が大阪西成から尼崎戸ノ内に転居された当時の社会的状況をまとめた資料や戸ノ内地区の古地図も入手しましたので、今後の研究活動に活かして行きたいと考えています。
 次回は大阪西成区の道場跡地を訪ねます。



▲古堅先生が昭和25年頃に開設された道場跡地付近
(完英先生もこの近隣で指導されていた)
それまでは、空地に板を敷き詰めただけの青空道場時代もあったようです



▲道場跡地近くにある沖縄県人会園田支部の会館
(以前はここにも空手教室があったそうです)



▲現在の塚口道場玄関



【2012.10.28】 パンガヰヌーン流空手術大阪支部、兵庫尼崎支部の調査を開始   

 パンガヰヌーン拳法研究会では、戦前上地流二世・上地完英先生によって、大阪西成、兵庫尼崎に支部道場が開設された史実について、現地訪問調査を開始します。
 パンガヰヌーン空(唐)手術は、和歌山⇒大阪西成⇒兵庫尼崎へと緩やかに展開しながら「上地流空手術」に名称を変更し、戦後沖縄で上地流空手道として大きな発展を遂げました。
 その意味で、大阪西成、兵庫尼崎は上地流空(唐)手に脱皮してゆくまさに揺籃期でありながら、いままでほとんどクローズアップされることのなかった歴史的転換点であります。 調査結果等については、別途当コーナーにてご紹介します。




【2012.10.6】 パンガヰヌーン流唐手術に関する意見交換会を開催   

 10月5日(金)、パンガヰヌーン拳法研究会では、和歌山隆聖館友寄道場の皆さんと、訪中報告会&パンガヰヌーン唐手術の歴史に関する情報交換会を開催しました。
 訪中報告を受け、友寄館長より重要な情報提供をいただき、パンガヰヌーン唐手術の技法伝承過程の解明に向け、大きな手がかりを得ることができました。 今後は、さらに検証活動を進めて行きたいと考えます。


和歌山県立図書館のご協力により、上地流伝承の歴史背景を理解する
のに役立つ貴重な資料を閲覧・入手できました。ありがとうございました。


明治末期〜戦前まで多くの沖縄出身者が働いた昭和紡績跡地の一部


情報交換会の一コマ。訪問の度に新しい発見があります。



【2012.8.11】 福建・虎形拳の図説テキスト(福建人民出版社刊)を入手  

 パンガヰヌーン拳法研究会では、周子和先生伝承の虎形拳テキストを入手しました。同テキストには、周先生の人物紹介、虎形拳の歴史・特性、三戦、三十六、小手鍛えなどの図説が掲載されており、現代上地流との比較研究の基調な資料といえます。 テキストは沖縄伝統技芸振興会館にて保管、供覧します。 (福州市武術協会・胡会長より寄贈)





【2012.7.1】 福州市訪問スケジュール決定   

 パンガヰヌーン拳法研究会では、沖縄上地流唐手道協会東京本部の支援を受け、藤本師範と和泉会員を8月6日〜10日の日程で福州に派遣し、上地流の源流を辿る調査活動を実施します。
 現地では、福州市武術協会幹部との情報交換や、周先生後継者の先生方と親善交流演武、琉球館跡地訪問などを予定しています。調査結果については、8月下旬を目処に、報告会を開催します。




【2012.6.17】 上地流尼崎道場(昭和15年設立)関連情報   

 上地完英先生が昭和15年に設立された尼崎道場で、昭和25年から3年間修業されたH.H様(80歳、横浜市在住)にインタビューの機会を頂きました。
 H.Hさんは完英先生門弟の古堅宗隆先生に師事し、サンチンをマスターして初段を取得されたそうです。当時の稽古模様の紹介や、サンチン、セーサン、サンダールイ(サンセールー)などの古流の技法について、実技を交えながら貴重なヒントをいただきました。
 第二次世界大戦直後の稽古や技法には、パンガヰヌーン流唐手術の特性がまだ色濃く残されており、今後の調査研究に活かしたいと考えます。



尼崎道場で昭和25年に制作・配布された記念手ぬぐい(H.H様所蔵)



【2012.6.9】 上地完文先生関連情報   

 上地完文先生中国修業のきっかけと、帰国後に沖縄で唐手を手ほどきされていた事実が判明しました。詳細については、8月の福建省訪問調査後に、沖縄伝統技芸振興会館にて開催予定の研究会で報告予定です。




【2012.4.11】 周子和先生関連情報  

 
上地完文先生が中国・福建省で師事された「周子和」先生の生家、書、武具等の写真、及び現在の技法承継者の方に関する情報を入手しました。
 今後は、この情報を元に、本年8月の福建省訪問調査準備を具体的に進める予定です。調査結果については、別途当研究会で整理して発表します。(周子和先生に関する写真情報は、「沖縄伝統技芸振興会館」(ゆめかなかん)内に掲示予定)
   
  



【2012.3.17】 上地完文先生関連情報  

 
上地完文先生の和歌山時代、そして沖縄での晩年に関する一連の情報収集が完了しました。なかでも、和歌山時代から生活を共にされ、完文先生の最期を看取られた内弟子、S.K様(沖縄県在住)のインタビュー模様は、等身大の完文先生を知るうえで大変価値の高いものであり、映像としてそのまま後世に伝えて行きます。
 研究会では、上地完文先生の足跡(福建渡清 ⇒ 沖縄帰国 ⇒ 和歌山転居 ⇒ 沖縄での逝去)について、現在書籍資料化を進めており、将来出版も検討中です。(完文先生に関する写真情報は、「沖縄伝統技芸振興会館」(ゆめかなかん)内に掲示中です)
     




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